城ピアノ~あなたも岡城跡で「荒城の月」を弾いてみませんか?~
全国でも様々な場所に設置が進んでいるストリートピアノ。
瀧廉太郎作曲「荒城の月」ゆかりの岡城跡(国指定史跡)を訪れる市民や観光客に、音楽を身近に感じるとともに、瀧廉太郎に想いを馳せてもらおうと、岡城跡の二の丸便益施設内にピアノを設置しました。
このピアノは廃校となった宮城台小学校で使用されていたものです。
営業時間内であれば、いつでも誰でも利用可能です。利用にあたっては譲り合い、自慢の腕を披露し、楽しい時間を過ごしてください。
廉太郎先生も聴いていますよ!
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楽聖・瀧廉太郎
瀧廉太郎写真(竹田市歴史文化館蔵)
明治12(1879)年8月24日、東京に生まれる。瀧家は江戸時代、豊後日出藩の家老職をつとめた家柄であった。
父が直入郡長となり、明治24(1891)年12月に一家全員で竹田へ移り、翌25年1月に直入郡高等小学校第2学年に転入。当時、廉太郎は12歳。学校の裏にある岡城跡で遊んだり、石垣に座り尺八を吹いたりしていたという。
明治27(1894)年5月に上京し、芝唱歌会に入会。東京の従兄・大吉のもとで生活する。同年9月には音楽学校予科へ入学し、翌年に本科専修部へ進学。明治31(1898)年に本科を首席で卒業し、研究科へ進学した。
在学中より作曲活動に励み、明治33(1900)にはピアノ及び作曲研究のため、ドイツ留学を命ぜられ、明治34(1901)年4月に横浜港を出航した。同時期に「四季」(「花」「納涼」「月」「雪」)「中学唱歌」(「荒城の月」「箱根八里」ほか)や「幼稚園唱歌」(「お正月」「鳩ぽっぽ」ほか)を発表している。ドイツ留学中に結核を患い、翌年に帰国。その後は大分へ戻り、病気療養の傍ら作曲を続け、「荒磯」や「憾」を作曲するが、明治36(1903)年6月29日、大分で病死した。23歳10カ月の短い生涯であった。